住友シゲルは休めない

住友茂の多動な日々

大人であるということ

私もいつのまにか大人と呼ばれる存在になっている。


あまり、感覚としては大人という感じはしないのであるが、私も大人である。


大人であるということは責任というまたもや面倒なものが付きまとってくる。


逆さ、この責任というものは大切であり、特に大人が子供に対しての責任というものはこの国の未来を左右するほど重要なものである。


大人は子供を育てる責任があると私は思う。


この責任は自分に子供がいるからというわけではなく、大人として子供と接する際に生じる責任である。


子供にとって大人とはどのような存在なのか、安心できる対象であり、モデルとなる手本であり、守ってくれる存在であり、学ぶことができる存在であり、居住食を与えてくれる存在であるなど、様々な機能をはたしている。


蝿の王という物語がある。この話は子供の周りに大人がいなくなった時、子供たちがどう行動するのかを表現した話である。


結果子供たちは本能的に生き、理性などなく、己の本能の赴くままに、生活していた。


このように、子供たちが今まで、人類が築いてきた文化を継承し、よりよく生きていくためには大人という存在が必要であると考える。


しかし、今の時代、大人は大人としての責任を果たしているのだろうか。


虐待が例にあげられるように、大人がむしろ子供の害になっている可能性がある。


しかしながら、この虐待という現象も、親の孤立化や被虐待者によるスパイラルなど、背景になるものは多く存在する。


これら様々な問題というものを改善するためにも私たちは大人とはどのような責任を果たすべきかをもう一度考え直しても良いと思う。


私たちにはできないことはない。どんな小さいことであれより良い社会を作るためにできることは存在する。


一人一人が自分にできることに気づき、そのできることをしていける社会になると、もしかすると社会の中で問題になっていることも少しずつ解決するかもしれない。


なによりも、私たちは大人は子供にとって安心できる存在になり得る必要がある。