住友シゲルは休めない

住友茂の多動な日々

インクルーシブ教育について

教員採用試験の一次試験も終了したので、今日からは二次試験にむけて、特別支援に関する小論文のお題について書いていこうと思う。


まぁ最悪一次試験に落ちていて、二次試験を受ける必要がないかもしれないけど、一応書いておく。


そもそも、私が一次試験の勉強を始めたのが4日前であったと言うのが多分一次試験が落ちた場合の明らかな理由になると思うが、まぁ勉強しなきゃ受からないのは当然の真理であると思う。


とにかく、今回からは1日に1つを目標に特別支援に関する文章を書いていく。


今回のテーマはインクルーシブ教育について

どのように考えているのかを述べたいと思う。


インクルーシブ教育は、しょうがいのある子もない子も同じ空間で学んでいくと言う考えである。


特別支援学校があるが、このような学校はたしかに子供達にあった学習を提供でき、良いと言う面もある中、障害のある子供に対しての偏見を他の子供達に示唆してしまうと言う点や障害のある子供も、人間関係の幅が狭まれてしまい、多くの人と関わらないという面がある。


そこで、障害のある子もない子も同じ空間で学び、障害のある人を理解してもらったり、交友関係を広げたりすれば良いと言う考えが出てきた。


この考え自体は大変良い考えであると思う。


多種多様な人々が生きていく現在では、人の多様性を理解し、受け入れながら生活していくことはとても重要である。


とりわけ、このような行為は障害の有無に関わらず、様々な人の個性を受け入れる必要がある。


人を見て、その人にどう関われば良いかを考えるきっかけとしても、有益であると考えられるし、障害のある人も青年期になるとどうしても地元や地域に遊ぶ人がいなく、余暇活動の際に寂しい思いをしている人がいるので、交流することで、お互いに良い影響があると考えられる。


しかし、ここで注意すべき点は、全ての時間交流すべきではないと言うことである。


子供達が学校生活をするなあたり、充実感を得られる理由の中に学習ができると言う視点がある。


そう考えると、学習環境をわける必要がある。


インクルーシブと主張しすぎて、学習してもわからない授業を受けさせていても無力感を感じるだけである。


無力感をもち、学習意欲を下げないためにも交流するところとしないところのくべつは明確にしておくべきである。