住友シゲルは休めない

住友茂の多動な日々

歩く自己肯定感

前々からであるが、私は歩く自己肯定感と後輩から言われている。


どうも私という存在は自己肯定感が高いという評価を受けている。


まぁ確かに私は自己肯定感が高い。


その理由としては様々なものが考えられるが、そのうちの1つとして、自己受容ができているという理由があると考えられる。


自己受容という概念は、自分の良いところも悪いところも認め、受け入れるという考えである。


そもそも、私自身自分のできることに対しても自信があるし、できないことに対しても自信がある。


そう考えると、まぁ自己肯定感は高まる。


また、私はとりわけ他人という存在を気にしない。


多くの人は、何かしらの他人からの評価などを気にして、行動を抑制したり、考えたりするが、私はそんなことがない。


つまり、自分という存在は常に自己で完結しており、自己の評価というものは他者からの評価に依存するものではなく、自己の評価に基づいて評価する。


さらに、私自身の評価は基本的に緩いものであり、あまり成果がなくても高く評価する。


そうなると自己肯定感は必然的に高まる。


そもそも、私は私自身を評価しているとは考えられないし、常日に今出来る精一杯のことをしている。


動かないで後悔するより動いてから後悔する。


世の中、行動力、多動力こそ、自分の人生を開く道しるべであると考えている私はとりあえず行動する。


そして、失敗したら振り返り、次はうまくやってみせると考える。


1人で無理なことは他人を頼り、他人が困っているなら無条件で力を貸す。


人間関係とは無条件の中で存在することが理想であると考え、自分の利益とかそんな小さなことを考えて関係を作っていると、どこかで無理が生じてその関係は破綻すると思う。


経済学的にはあまり良くない考えであると思うが、私は対人関係において損得という視点よりも無条件の支え合いというのが大切だと思う。


誠の心というものが大切であり、相手に見返りを求めてはいけない。


見返りを求めた瞬間、それは平等な関係というよりは、取引になってしまうからである。


私が日々心がけていることは、どれだけ人を

無条件で受け入れられるかである。


相手を受け入れることができれば、必然的に他者に対して肯定的な感情を抱くことができ、きっと自身の自己肯定感も上がると思う。