住友シゲルは休めない

住友茂の多動な日々

子供をどう捉えるのか

昔は避難などの技術も進歩してなく、子供は多く生まれ、多く育てる必要があった。


しかし、子供の立ち位置としては、育てる存在というよりは、労力、後継といったニュアンスが強く、果たして子供という存在に対する人権を尊重されていたかどうかと問い直すと、違うとも言える。


そんな中で現代の子供をどう捉えるのかを考えてみたい。


現代は避妊の技術や未熟児などの子供に対する医療的なノウハウが発達し、子供が命を損なわずに生きることが可能になって来ている。


また、個人的にはあまり好きではないが、出生前の診断でダウン症があるかどうかも判断することができる。


つまるところ、健康な子供を産むという点に関しては、大変技術などが進みやりやすくなったと言える。


しかし、そうなってくると、子供の命をコントロールすることができ、自分の理想となる子供に育てようとするような動きもあるのではないかと思う。


人の頭の良さなどは環境要因というものによっても決まるものであり、早期に良い教育をする事で、知的な能力は向上すると考える。


特に、小学校低学年段階では、語彙の量によって学力の差が現れることになる。


つまり、幼い頃から言葉に触れる機会を増やし、ボキャブラリーを増やしておけば、必然的に頭の良い子供が育つということである。


しかし、ここで考えるべきは子供の思いである。


子供たちは、どんな風に育ちたいのか。


教育と洗脳は紙一重であり、親が良かれと思ってやっていることは実は子供にとって良くないことなのかもしれない。


ここにおいて、親のアプローチが子供自身が興味を持ち楽しいと感じることができればおそらく押し付けにならず良いと思うが、これが子供の意向を無視したものであるから子供の権利の侵害であると思う。


世の中には子どもの権利条約たるものがあり、子供にも子供の権利がある。


その権利を、大人はもっと深く理解し、子供の権利の尊重をしたいかなければならないと私は思う。


子供という存在も自分の経験則だけの視点で見るよりは、しっかりと学術的にみて、何が子供にとって良いことなのかを改めて問い直していく必要があると思う。