住友シゲルは休めない

住友茂の多動な日々

教員採用試験を終えて

無事教員採用試験を終えることができた。

この数ヶ月間私にしては珍しく、様々なことに対して努力をしていた。

ここにおいて、努力ということは、他者からの評価で頑張っているように見えると言う他者依存的なものではなく、自らが主体的に行動したくないことに対して主体的に行動しようとすることを指すのである。

つまり、嫌なことに取り組むことが努力である。

教員採用試験というものは私に対してして快の感情を生じさせるものではなく、中々に不快な感情を、生じさせるものであった。

その中で私が思ったことは、教員採用試験の勉強をせずとも、今まで、教師になりたいという思いを持ち、日々コツコツと努力していれば、特に勉強することは無かったと感じる。

とりわけ、今回私が行った練習というものはピアノと作文であり、この二点においては苦手とする内容である。

逆に、集団討論や面接、模擬授業などは全くと言っていいほど勉強せず、面接練習に関しては、二回ほど雑談程度で終わらせただけであり、模擬授業に関しては何もしていなかった。

それでも、個人的には面接も模擬授業も手堅いがあり、面接官からは子供が好きなんですねというコメントや驚かれることがあった。

私の行った模擬授業もおそらく酷いもので、怖い話をしただけである。

特別支援学校の模擬授業のお題が、「お話を楽しもう」というお題であり、お話ならば怖い話でも良いだろうと行った。

だいたい授業を考える時間は18分ほどであり、そのうちの2分間で授業の構成を考え、後の時間は怖い話を考えていた。

学童のバイトで培われた怖い話のネタを組み合わせ、とりあえず怖そうな話を考え、一回自分で話してみたときにちょうど終了の合図が来た。

まったくもって理解不能な思考回路である。しかし、逆に模擬授業の練習という型にはまり込んでいたのであれば、この発想はできなかったかもしれない。

世の中には多くの型があり、その型にはまることで、無難な対応をすることができる。しかし、この型というものは恐ろしいものであり、思考を停滞させたり、停止させたりする要素を多くはらんでいる。

型、つまりは方法論というものは確かに大切である。しかし、こればかりしていると新たなものを考えますことは困難であるし、その型にこだわりすぎて、それ以外の考えを受け入れることも困難になりうる。

しかし、私はこの型というものを全否定するわけではない。むしろ必要なものであると考えている。なぜ必要かというと、その場で即興に判断するにはある程度のパターンを持っている必要があるからである。ここで大切なことは、即興で判断するときの判断基準である。この判断基準というものは本質的なものであり、その本質を知った上で何がその本質により近づくことができる型なのかを考えていく必要がある。


ここまで様々なことを述べたが、簡単に言うと本質的なことを理解した上で、様々な型、方法論を所有し、適切な判断ができる能力が必要であると言うことである。

残念ながら、教員採用試験の勉強ではこのような能力は身につかない。このような能力を身につけるためには教師になる勉強をしなければならない。