富山の事件
ニュースを見ると、富山で起きた事件についての報道が目につく。
また自衛官が警察から拳銃を奪い、小学校へ行き発砲したという事件である。
この事件により、2名の方がいい亡くなり、なんとも言えぬ虚しさを感じる。
今回の事件は想定外なことが多かったように感じる。
拳銃を奪われる、小学校へ侵入する、そして、何より元自衛官が犯人であるということが最も想定外であった。
そこら辺の素人が相手であれば、今回のように死者が生まれなかったかもしれないが、訓練を受けてきて、銃の使い方や刃物の使い方をある程度把握できている人の犯行となれば、中々対応する方も困難であろう。
実際、警察が発見した際には、すぐに犯人に対して発砲したという。
この対応に対して、銃を撃つのが早すぎなのではという意見もあるが、今回の場合、相手が訓練を受けた人物であるという点や小学校での事件であるため、子供たちの安全をすぐに確保するという点でも私的には良い判断であったと考える。
しかし、なぜかのような事件が起きてしまったのであろうか。
個人的な考えとして、人は満足していれば犯罪を起こすことはないと考えている。
特に、最近は心理学的にも利他業を行うことにより人の満足度は高まり、結果として他者と共同しながら行きていけるような行動をするようになるということが明らかになっている。
聞くところによると、この犯人は中々コミュニケーションが苦手であり、孤立気味な人であったとのことである。
私は何度も主張するが、人は一人では生きていくことができず、誰か他者と一緒だからこそ生きていけるのである。
その視点からいうと、この人は孤立感をため、周りに対しての不甲斐なさや気持ちの共有などが苦手で苦しかったのではないのだろうか。
その表現として今回の事件が起きたように思える。
多分これから対応がどうだったなど、今後どうするかなど話し合うことがあると思うが、もっと本質的なところに触れて、どのような環境であるならばこのような事件を防ぐことができるのか、人がどうあれば犯罪が起きなくなるのかというところを議論しても良いのではないかと考える。
人が生きていくということはとても大変なことである。
1人ではその苦しさに押しつぶされそうになることもある。
だからこそ、人が必要である。
1人で生きていると思わず、誰かと生きていると思えるような社会にして生きたい。
そして、孤立する人の近くに行って、一緒に頑張ることができるような人間に私はなりたい。
そうする際には決して見返りは求めない。
見返りを求めた瞬間それは他者のための行為ではなく、自分のための行為になるからである。
本当に人のために生きるのであれば、他者を中心に、自利を求めず行動しなければいけない。