ギフテッド教育について
昨日、ギフテッドの子供に対してしてどのような支援をすれば良いかを考える勉強会に参加した。
ギフテットとは、知的な遅れがないものの脳略に凸凹がある人のことを指す。
また、知的障害の定義の一部にはIQ70以下という定義があり、これは下位2%くらいである。
逆に頭の良いIQ130以上の人たちは上位
2パーセントである。
このことからもわかるように考えられるように、下位2パーセントの子供に対して支援が必要であるならば、上位2パーセントにも支援が必要ではないのか。
そのような点からギフテットに対しての支援というものの必要性が言われている。
今回聞いた話によると、その子供は簡単にいうならば、勉強が簡単すぎるが故に不適応を起こし、学校に馴染むことのできない子供である。
彼の中では学校というところは勉強するところであり、自分が知っていることを授業で言われても今更勉強をする必要がないと感じ、自分のしたい勉強をしているという子供である。
また、人間関係の面では、とりわけ他人を求めず、自分の時間というものを大切にしている子供である。
とはいうものの、彼は人徳があるようで、自分から進んで他者と関わろうとはしなかったが、いつの間にか周りに友達が存在しているタイプの子供である。
また、自分が廊下に行くなどの行為であるため、基本的に他者には迷惑をかけていなかった。
子供の支援をするにあたり、1番重要なことは関係を作ることである。
支援者と子供がいい関係でないと支援をしようとしても支援を受け取ってもらえない。
人は信頼している人の言葉は聞くものであるが、信頼していない人のことなど聞く耳を持たない。
そのため、第1の課題は信頼関係を築くことである。
しかし、この子供は厄介なことに大人との関係を求めない。
小学生であれば、大抵大人を見ると近寄り、関係を築くように頑張るのであるが、この子は違う。
学校へ登校するということに対して不信感を持ち、勉強など、自分でできると思い、学校へ行く意義を感じてはいない。
そのような子供にどのような支援が適切なのか。
答えは実は簡単であり、その子の世界観に入ることである。
その子が好きなものを知り、話をして共感する。
そして、その子の疑問に対しては、しっかりと様々なことを考えている大人が、今やっていることが将来にどのように関係して行くのかを説明する必要がある。
つまり、このようなある程度賢く、論理的で頭だった他のような子供に対しては、この子が納得できるようなくらいの知識を持ちうる大人が対応する必要があるのである。
この子が持つ疑問というものは素朴でありながら、当たり前すぎてみんな考えることのない疑問がおおい。
大人たちはこのような子供にあった時、今まで我々が当たり前と思っていたことに対してもう一度問い直し、吟味して行く姿勢が必要である。
当たり前というものはとても危険であり、考えなく自動化してしまうのである。
日々、時代は進歩し変わり続けている。そのような時代であるからこそ本来ならば、もっと当たり前なことに対して深く考え、なんでこのようなことをするのかということを考えて行く必要がある。
ギフテットと呼ばれる部類の発達障害のある人たちはおそらく、世の中を変える存在になりうるであろう。
理由としては、彼らの持ちうる能力や魅力というものは常人では持ちうることのできないくらい素晴らしいものであることが多いからである。
そして、支援をする上での一般化されるものとしては、その子供のことをよく知ること、その子の世界に入り、意識、感情、考えを共有し、共感して行くことが大切である。
そのためには日々、その子を見て、変化があったり、頑張っていたりするところを言葉で伝えて行くということがとても重要である。
そして、それらをする時には、ある程度の見立て、どのような特性があるのか、どのような特性のある障害に似ているのかをしっかりと見分けられるようになり、一人一人に合った指導を展開して行くことが重要になってくる。