住友シゲルは休めない

住友茂の多動な日々

対話と学び

学生時代後期には主に対話と学びについて考えてきた。

 

人の学びというものについては、おそらく1人で学ぶことにおいて限界があると考えている。

 

理論や概念というものはそもそも理解するのが困難であり、人が理解できるのは自己の視点のみであるため、もしかすると自分で学んだ結果かなり偏った思想に染まってしまう可能性が十分ある。

 

そもそも、同じ言葉を使うかもしれないが、その言葉というものはその人の価値観や人生経験などが反映された言葉であるため、似ているようで異なることがある。

 

少なくとも僕自身は相手と自分が同じ言葉をを使っていたとしても100%同じ意味合いを持っているとは考えていないしそうであるからこそ、人と人とは完全理理解し合えないものであると考えている。

 

同じお酒という言葉を使ったとしても、そのお酒はビールかもしれないし、ウィスキーかもしれない。

 

さらにビールであったとしても、クラフトビールかもしれないしジャパニーズビールかもしれない。

 

このようにズレというものがあると考えている。

 

しかしながら、学びという点においてこのズレというものが大変重要であり、このズレを獲得することにより、自分自身の価値観や概念を更新し、更に進化し、深化した考えとなってくる。

 

では、どのようにすればそのズレを獲得するかというと対話である。

 

対話とはある事象を多面的に捉えることを目的とした営みのあると僕は考えている。

 

そして、対話の根本的な姿勢としては聞き合いであり、相手の言葉を聞き、どのような意味なのかを深く対話かなれながら聴く。

 

そして、その聴いたことをもとに自身の考えを述べ合い、考えを取り入れて行く。

 

この営みというものはせめぎ合うものではなく、調和、和合して行くものであり、相手を分かろうとする姿勢や理解しようとする態度をベースに分かち合って行くことである。

 

この姿勢があることで人は他者の考えを取り入れることができるようになり、自身が学ぶことができ、結果として自身の知識や人間性を向上させることができると考えている。

 

 

つまるところ、対話の目的は多面的な視点の獲得であり、その方法として相手を理解しようとする姿勢をベースに聴くという営みを行うことで人は学ぶことができるということである。