住友シゲルは休めない

住友茂の多動な日々

私という人間の歴史

多くの人からは、私という人間は人と関わるのが好きであり、誰とでも関係を持とうとし、プラス思考で楽観的で自己肯定感が高い人間であると思われていると考えられるが、私は本質的にはそのような人間ではない。


そもそも、過去、私が保育者や小学校、中学校へ通っていた時はこのような人間ではなかった。


幼き頃の私は人と関わることが嫌であり、1人でいることこそ、至上な喜びであると感じていた。


そもそも、人と話すことに対して極度な緊張感があり、自分からは話そうとすることもなく、自分の世界にいることが好きであった。


特に名前というものに対して敏感であり、人の名前を呼ぶことができなかった。


私などが他者の名前を呼んで大丈夫なのか、不快な思いをしないのかということを常に

気にし続け、どうすれば人の名前を呼ばなくて済むのかを考えながら生きていた。


また、学習に関しても字が汚く、劣等感を、持っており、そのため、国語という教科は大変に嫌いであった。


そのため、文章読解も苦手であった。


本を読まないことはなかったが、今ほど本は読んでなく、それよりも数ががすることが楽しかった時代である。


また、私という人間には楽観的であり、不安というものがほとんどないように思えるが、その内面は繊細であり、常に不安と戦いながら生きている。


中学のからは2年間ほど不登校になり、将来どのように働くのかを不安に感じながら生きていた。


あの時は基本的にマイナス思考であり、無気力であり、何もする気が起きない状態であった。


人との関わりもほとんどなく、学習もする気もなく、ただ、徒らに時が過ぎていくばかりであった。


そんな私でも今は違う。


ポジティブであり、前向きで自分のしたいことは進んで取り組む。


そのような人物に今はなっている。


こうなれたのも人生というものに瞑想したからであり、その中で、徳積みというものの大切さを実感したからである。


結局のところ、人生生きる上で徳という概念は大切であり、徳が高いことによって運も良くなり、より良い生活を送ることができる。


その徳とはどのようにして高まるかというと大乗業であり、他がために、己の利益を考えず、利他に生きていくことができるのかである。


無条件で相手のために行動するというおこないを続けることによって人の運命とは切り開いていくことができるのである。


どのように生きるのか、何を信じて生きるのかによって人の運命は変わっていき、自分自身が変われるのだと思う。