教育のビジョン
教育という大きなカテゴリーの中で教えていかなければいけないことは多く存在する。
教える内容とは、果たして何なのか。
そもそも、学校は何を教えていくべきなのか。
様々な疑問は挙げられるが、知識的なことばかり教えていてはダメであろう。
歴史を見ると、我々には理解しがたい狂気的な事件は多く存在している。
今回富山で起きた事件もそうであるが、大阪で起きた池田事件や神戸で起きたさかきばら事件など、子供を対象にした凶悪な犯罪は多く起きている。
また、加害者が大人ではないいじめなども個人的には凶悪犯罪と捉えても良いと思っている。
私はこのような犯罪を犯す加害者側の気持ちはわからない。
しかし、その人たちの歴史を見ると、満足できていなかったことが多くあったのではないかと思う。
何度も書いていると思うが、人の欲望というものは恐ろしく、様々なものがある。
三大欲求である、食欲、睡眠欲、性欲はもちろんのこと、名声を求める、地位を求める、金権力、人は多くのこと求め、執着することがある。
このように多くのことを求めてしまうが故に人は苦しみを感じるのであろう。
四諦という概念が仏教にある。
苦諦、集諦、滅諦、道諦とある。
苦諦とは苦しみのことであり、これがバラバラに散らばっている。
そして、その苦しみには原因があり、様々な欲を、求めてしまう。
しかし、そのような原因などというものは気持ちの持ち方1つで変わるものである。
それをなくしていくことが大切であり、それをなくしたところに道が開かれるという考えである。
人は多くのことを求めてしまうからこそ苦しんでしまう。
物事に執着せず、生きていくことができるのであれば、もっと生きていくのは楽しいと感じると思う。
しかし、執着をなくしていくには相当な知恵が必要である。
人は知恵をつけることにより多くのことを受け入れることができ、結局は1つのことにとらわれることはなくなるのである。
そのようなことを考える機会を提供するのが教育であると考える。
視野が狭い人間ほど他者を受け入れることが困難であったり、物事に執着したりするのである。
人という存在は全てにおいて肯定されるべきであるというのが私のもっとうであり、全ての人には良いところが沢山ある。
その良いところをお互いに拝み合う関係が大切なのではないだろうか。
きっと、事件を起こすような人たちは自分しか見ることができない状態に陥っていたのであると思う。
そうしないと、きっと自己を保つことができなかったのではないだろうか。
人は素晴らしい。
だからこそ、お互いの良い姿を認め合い、悪いところを支え合って生きていくことが大切だと思う。
何度も同じことを書いているが、これは私が子供たちに教えたいことでもある。
無条件で人は認め合うこととができる。
そうしていく中で、より良い社会はつくられ、多くの人が安心して暮らせるのではないだろうか。
そうするためにはまず、大人が各なるように振る舞うことが大切であると思う。
大人が人の良いところを認め合い、受け入れる。
それは教師だけではない。
全ての大人がお互いを拝みあい、認め合う。
きっとそこに目に見えない信頼が生まれる。
そうすることで、みんなが信頼し合うことができる社会になっていくのではないだろうか。
もっと私は人の生き方について考え、真理を突き止めて生きたいと思う。
全ての人には可能性があるから。