方法論の危険性
方法論というものを学ぶことは、思考を単純化して即行動できるという点に関しては優秀であるが、柔軟性が消える可能性が生じ、予想外な展開にはついていけなくなる。
全ての人が共有して使用する方法論であれば良いのであるが、その中にイレギュラーな存在が入ることによって、その方法論というものは意味をなさなくなる。
なぜそのようなことを思ったのかというと、どうも、多くの人がこうあるべきだと考え、自分の型を作り、その型に合うことを至上と考え討論しているように思えるからである。
討論というものに型をつけるというのは悪いことではない。
しかし、その際はその型すら柔軟に対応できるように自分自身で日々更新し、どんな人がいても対応できる必要が生じる。
まぁ討論に関しては究極聴くことを中心に型を作っていけば失敗することはない。
討論の目的とは、自己の認識を深めることにあり、話を聴くからこそ認識というものは深まっていく。
話を聴くことができなければ、自分のない相手の話を拾うことができなくなり、結局は自分の考えしか述べてない状態になってしまう。
まぁ大変狭い視野で話をしていることになり、内容が陳腐になる。
また、知識がなければ、そもそも、相手の言っている内容を拾うことすらできず、議論が深まることはなくなる。
私が言いたいことは、議論の練習をする前にそもそも知識を入れておくということと、知識ない状態で型だけにこだわるということが、いかに思考の柔軟性をなくし、自分の考えに合わない人に対して無意識的に排除してしまうかという危険性があるということである。
無知は罪であるが、常に無知であることを自覚する必要がある。