住友シゲルは休めない

住友茂の多動な日々

今思うこと

様々な思想が混在し、コミュニケーションのあり方や情報を取得できる機会が増えたことなど、現代社会では過去には想像できなかった多くのことかが可能となっている。

その中でも、相手の意見に同調したり、相手は相手、自己は自己などと集団というものを大切にしたコミュニケーションのあり方というものが今の主流であると考えている。

しかし、このようなコミュニケーションで良いのだろうかというのは甚だ疑問である。同調し、相手と協調するということは確かに大切である。それと同時に自分自身の考えを持っており主張することも大切である。相反するように考えられるこの2つの考えというものは大変密に関わっていると考えられ、他者と通じ合うためには必要不可欠なものである。

そのような意味合いでアサーションという考えもあり、自己主張と他者尊重を同時に行うという考えもある。しかし、このように思想や考えというものに枠組みを持ってしまった場合、他者との関わりがある種の方法論の乱用となり、うまく相手を印象操作しているというようにも思われる。

確かに科学が発展したこの世の中では相手とうまく関わる力というものをある種構造化し、誰でも良い関係を作ることができるような理論などは多く存在する。つまり、意識さえすれば相手の印象など操作可能であるということである。他者をある意味騙して、自分にとって良い印象を操作することなど、学術的な理論を使えばある程度できるのである。


そんな世の中で良いのかどうかは私にとっては大きな課題であり、個人的な意見としては避けるべき世の中であると考える。

自己という存在は大切である。他者という存在も大切である。自己を形成するために他者が存在するのであり、他者が存在するからこそ自己を保つことができる。そのために、他者の考えというものは受け入れ、尊重していかなければいけないと考えられる。しかし、その前提にはある種の前提条件というものが存在し、その前提条件を満たさなければ、他者の考えであったとしても尊重することは危険なのではないだろうか。無条件の肯定などそう考えれば恐ろしいものであり、ある種の思考停止状態と言っても良いと思える。


ここで私が大切であると思うことは、自己の確立であり、この確立というものは自己をよく理解しているという点や行動の目的が自己に向かうのではなく、社会に向かうものであるということである。

私は結局のところ、目的の動機が1番重要であると考えており、行動する際の目的とは自己の利益を考えてはいけないと感じている。

つまり、自身の行動が社会、あるいは他者にどのような幸福を与えるのかを追求していくことが大切である。その際は情けや同情といった感情で動くことはよくない。情けや同情というものは言ってしまえば執着であり、相手には私がいなければいけないなどという歪んだ囚われであったり、認知であったりする。

行動する目的に欲を入れることは危険であり、五欲を滅して社会のために行動していく必要がある。欲とは判断を鈍らせるものであり、色欲、食欲、睡眠欲、名声欲、金欲などをなくした上で行動していく必要がある。これらを調伏するためには結局のところは智慧が必要になり、行動する際には慈悲の心で行なっていく必要がある。

執着の存在を否定することが人の行動をよくすることの第一歩である。

そうした中でどう社会に貢献できるのかを考えて行動することが、より良く、生きていくことにつながるだろう。