住友シゲルは休めない

住友茂の多動な日々

満たされるとは

最近というほどでもないが、世の中物騒である。


ニュースを見るとまぁ悪いニュースが多く、常に身の危険を感じながら生きていくことになっている。


まぁこの悪いニュースというのも、情報社会になり、すぐにありとあらゆる情報が伝達されることが可能になったから伝わりやすくなったのか、それとも悪いニュースが増えたのかは分からないが、気分は良くない。


誰かが犯罪を起こすということは高い確率でその人物は気持ちが満たされていないと思う。


満足していて気持ちが落ち着いている人は犯罪など基本的に起こさないと思う。


何かに不満があり、イライラし、満たされていないからこそこのような犯罪などが起きているのだと思う。


だからこそ、その人の罪についてどのような刑罰を与えるかというよりも、どのようにすればそのような人を生み出さないようになるのかを考えていくという視点も重要であると考えられる。


自己肯定感の低い人ほど生きることに対して苦労する人はいないと思う。


そのような人は、常に自分を責め、自分のダメな面だけ注目して生きている。


そして、もしかすると能力についてのみ今まで褒められてきたのかもしれない。


褒めるというのは使い方を間違えれば毒となり、褒めなしでは生きていけない状態に陥ってしまう。


だからこそ、褒めるというより認める。


あいメッセージで良いところを伝えて行くということが大切である。


また、存在の肯定も大切である。


何かできるからその人は大切なのではない。


勉強ができるから偉い、絵が上手いから偉い、優しいから偉い、テストで100点だから偉い。


そんなものは価値観の押し付けであると思う。


もし仮にそのように褒められていたのであれば、その褒められるという経験によってアイデンティティを、形成していることになるであろう。


果たしてそれは自分自身を生きていることになるのだろうか。


相手の都合のいいように生き方を選ばざるおえなくなっているのではないだろうか。


そう考えると、私はその人の存在自体が尊いものである、あなたがいるだけで私は嬉しい、存在が大切であるということを伝えて行く必要があると思う。


そしてそこに見返りを求めない。


無条件の肯定こそその人の安心感や自己肯定感を育てることになり、その人が満たされる良い要因になるだろう。


この無条件の肯定こそ愛である。


私はそう思う。


大切なのは他者の存在である。


他者は居てくれるだけでとてもありがたいのである。