喜びとは
人の快の感情の1つに喜びがあると考えられる。
しかし、この喜びとはどのような感情なのであろうか。
感情というものはそもそも主観が影響するため、答えといった答えはないと思うが、喜びという感情について考えていくにつれてわからなくなって来た。
本来ならば多くの人と議論を通して自分なりの落とし所を見つけていくことが必要であると思うが、今は議論する相手がいないため、メモがわりにこの記事を書いている。
私にとっての喜びというものは、周りが生き生きと生きていることであると考えられる。
苦しいこと辛いこと、多分多くあるだろう。
しかし、そのようなことが起きたとしても前向きに、一人で背追い込まず、仲間と共に自分らしく生きている人を見ることで私は喜びと感じる。
そのため、逆に辛そうにしている人をみると助けたくなるというダメな点が私にはある。
本来ならば、その人の課題であるため、私が関わるというのはその人の尊厳を傷つけることにつながると感じているため、してはいけないと分かっていてもなぜか、手助けしたくなる。
更にいうならば、手助けする時、手助けしていると感じさせたくない。
私は人から感謝されることや褒められることが嫌なのである。
前にも記事で書いたと思うが、私は褒められるということについてある種の恐怖すら感じている。
そもそも、動機付けの観点からいうと、内発的にやっていることであるのに、褒めてくるというのはとてもいけないことである。
これでは、私という主体が褒められるためにいいことをしようと考えてしまう可能性がある。
こうなってしまうと、自分の人生を生きることはできなくなる。
他者の目を気にし、いかに周りから認められるかという視点で行動してしまうことになるので、偽善的な善行になってしまう。
私がしたいことは偽善的な行いではなく、その人にとって何が最善かを考え、その人の幸せにつながることをしたいと考えているのである。
つまり、私にとっての最大のフィードバックはその人が楽しく、幸せそうに生きているという状態像であり、感謝の言葉など不要なのである。
その他者が幸せそうにしているということこそが私にとって幸せなのである。
だからこそ、日々人をじっくりと観察し、いかに相手に気づかれず、支えになれるか、その人のことについて親身になれるかということを考えて生きている。
その人の生き方を尊重しながら、全く気づかれず、その人が幸せになるように振る舞いたい。
まぁこれは自己満足とも捉えられるので、良い生き方とは言えないが、どうも僕はそのような生き方が染み付いてしまったらしい。
ならば、その自己を受け入れ、一人の人が幸せに生きられるように、自分の持ち得る能力を最大限に活用させてできることを気持ちを込めてやって生きたい。
賢くない生き方ではあると思うが、そんな生き方が私らしい生き方であるとも感じている。