褒められるということ
褒められるということは未熟な証拠であると私は考える。
そもそも、私にとって褒められるとは苦痛なことである。
なぜならば、私が行動する理由は誰かを喜ばせたいからだからだ。
即ち、褒められても誰も喜んでいなければ意味がないのである。
そして、人は弱いものであり、褒められるという快楽を味わうとより求めてしまうものである。
真摯な行動理由が、自己愛的に変換される可能性がある。
そのため、私は褒められることが嫌なのである。
むしろ、褒めるよりは、その賞賛に値する行動を真似してほしい。
例えば、その行動が誰かを喜ばせるものであったとしたら、真似をすることでまた誰か一人嬉しい気持ちになる。
そして、その人がまた別の人に良いことをすれば、もう一人嬉しい気持ちを持つ人が増える。
その連鎖をつなげることに意味があると思う。
私にとって、賞賛とは毒であり、ある意味自分の態度を溶かしてしまう硝酸になりうるものであると考えている。
しかし、気持ちが揺らぐとそのような気持ちも忘れてしまう。
だからこそ、日々、なぜ行動するのかを問いかけ、私の行動意義を初心に返していく必要がある。
宮沢賢治のアメニモマケズ、この詩の如く振舞うことが私の理想である。